アンケート監修までの道のり

雪本剛章が「カラオケで歌いたい英語の名曲アンケート」を監修するに至るまでには、学生時代から社会人生活を経て積み上げてきた体験があった。
クラブやディスコで体感した音楽の熱狂、早稲田でのイベント企画、そして地方勤務で触れた土地の文化――それらが一本の線でつながり、彼に「人と音楽の関係を記録し、分析する」という発想をもたらしたのである。

大学時代

早稲田大学の学生だった剛章にとって、音楽と人の集う場は単なる娯楽ではなく、生き方を模索するための舞台だった。
芝浦の湾岸で生まれた巨大ディスコ「GOLD」や「ジュリアナ東京」を体験し、その熱狂を学内サークルでのイベントに持ち帰ろうとした。
「音楽は人を動かす。都市を変える力すら持っている」――その直感が、後の企画力と観察眼の基盤になった。

「ゴールド」の衝撃

ゴールドは、地上7階建ての倉庫を改装した巨大な箱だった。
3階のメインフロアは吹き抜け構造で、頭上には高揚感を増幅させる照明が踊る。
5階にはチルアウトスペース、6階には「吉原」と名付けられた和風ラウンジがあり、ジャグジー式の風呂まで備えていた。
巨大なスピーカーを通じて鳴り響くハウスミュージックは、体を貫くほどの重低音。ニューヨークから呼び寄せられた高橋透のDJプレイが、剛章を一晩中フロアに釘付けにした。
女装コンテスト、肉体美の競演、飛び入りファッション・ショー。大学の学園祭イベントとは比べ物にならない規模と自由さ。
「これこそが都市の遊び。俺もこんな場を作りたい」
早稲田の教室に戻っても、その夜の光景は頭から離れなかった。

早稲田サークルの挑戦

剛章は学園祭や貸しフロアで、自らのイベントを仕掛け始める。
DJブースを借り、安い照明を並べ、深夜まで準備に追われる日々。だが、芝浦の煌びやかさを知る彼にとって、その差は痛感せざるを得なかった。
「ゴールドは15億円。俺たちは、せいぜい数万円の予算だ」
それでも諦めなかった。
「大事なのは金じゃない。どう人を巻き込み、熱を生むかだ」
彼はそう仲間に言い聞かせ、学生らしい奇抜な企画を打ち出していった。

1991年、ジュリアナ東京

そして1991年。芝浦に再び巨大な夜が生まれた。
「ジュリアナ東京」――日商岩井とロンドンのジュリアナス社が仕掛ける、2000人収容のディスコ。
ボディソニックシステムにレーザー光線、そして「大人の遊び場」を標榜するコンセプト。
剛章は早稲田の仲間を連れて視察に訪れた。フロアの熱気に圧倒されながらも、彼の目は冷静に動いていた。
「渋谷や六本木のような学生街と違い、ここは大人をターゲットにしている。けれど田町駅から徒歩6分…この利便性が、若者も引き寄せるだろう」
大学生の企画者としての目線が、彼に“理想と現実の境界”を見せつけていた。

大人と若者の狭間で

ある夜、銀行員のOLが彼に言った。
「六本木? もうイモよ。ガキばっかり。芝浦のほうがずっと大人の空間ね」
一方、同じフロアでは、森永ラブで夕食を済ませてからやってきた学生グループが歓声をあげていた。
「5000円の入場料? これじゃ晩飯はバーガーで済ますしかないよな!」
その混沌こそが、ジュリアナの姿だった。
「大人の場所を作ろうとしても、結局は若者が流れ込んでくる。だが、それでいいんだ。境界が溶けるからこそ、ここには熱が生まれる」
剛章はそう思い至った。

湾岸の記憶

1990年代半ば、バブルの崩壊と共に芝浦の熱も薄れていった。
だが雪本剛章にとって、ゴールドの衝撃とジュリアナの眩さは、早稲田時代を象徴する「原点の夜」だった。
「遊び場はいつか消える。でも、あの時生まれた鼓動は、俺の中で生き続けている」
卒業を間近に控えた彼は、次のステージを見据えながら、ノートに新しい企画案を書き込んでいた。

就職活動

湾岸の鼓動

1990年、早稲田大学2年。
雪本剛章はまだ将来に明確なビジョンを持っていなかった。ディスコやクラブの熱気に魅せられ、サークルではイベント企画を楽しんでいたが、それを「仕事」にできるとは考えていなかった。

焦燥が芽生えた

しかしバブルの余韻がまだ残る時代、同級生たちは早くも就職活動を意識し始めていた。
「総合商社に入れば世界を飛び回れる」
「金融なら一流企業の看板が手に入る」
そんな声がゼミや飲み会で飛び交い、剛章の胸にも焦燥が芽生えた。

会社説明会というショー

3年に進学すると、彼もスーツに袖を通し、会社説明会に足を運んだ。
だが、東京會舘やホテルで開かれる説明会は、彼の目にはどこか「クラブイベントの模倣」に見えた。
企業パンフレットはカラフルなフライヤー。人事担当者のスピーチは、まるでDJのMCのようだった。
「これも一種の“イベント”じゃないか」
剛章はそう思い、冷静に観察していた。

言葉に心を掴まれる

ある商社の説明会で、担当者が語った言葉に心を掴まれる。
「我々の仕事は、資源や商品を動かすだけじゃない。人を動かし、街を動かすことだ」
そのフレーズに、彼は胸を撃たれた。
「街を動かす――それなら、遊び場を仕掛けることとも同じじゃないか」

迷いと決意

とはいえ、バブル崩壊の兆しが見え始め、就活市場はざわつき始めていた。
先輩からは「商社も金融も、数年後はどうなるか分からないぞ」と言われ、剛章はますます迷った。
クラブ仲間の一人は、アパレル会社に内定し「夜の文化をファッションで表現する」と語った。
別の仲間は、音楽業界を志望していたが「不安定すぎる」と親に反対されていた。

半ば妥協、半ば希望の答え

剛章自身も、イベントや文化に関わる道を夢見ながら、最終的には安定を求めて商社に志望を定める。
「世界を飛び回れるなら、どこかで“遊び場”を仕掛けるチャンスもあるかもしれない」
それが彼の就職活動で導き出した、半ば妥協、半ば希望の答えだった。

社会人生活と金沢の夢

新天地

1992年4月。
雪本剛章は早稲田大学を卒業し、大手商社に就職した。
最初の赴任地は石川県金沢市。芝浦や六本木のきらびやかな夜を見てきた彼にとって、北陸の古都はあまりに静かで、最初は「場違いだ」と感じた。
だがある日、取引先の地元経済人との会話で耳にした言葉が、彼の心を揺さぶった。
「粟ケ崎遊園を知っているか? 北陸の宝塚と言われた夢の遊園地だ」

幻の遊園地

粟ケ崎遊園――かつて金沢市と内灘町にまたがる砂丘に存在した巨大レジャー施設。
千人収容の大劇場、料亭、洋食堂、大浴場、動物園、野球場、72メートルもの大すべり台。
さらに少女歌劇団があり、宝塚歌劇団も友情出演した。観客の熱狂はすさまじく、アンコールが止まらなかったという。
1920年代、大正デモクラシーの風が吹き込んでいた時代、人々の自由への渇望と文化的高揚がこの遊園を生んだ。しかし戦争の荒波に呑まれ、1941年には閉鎖。軍需工場に姿を変え、戦後もついに再建されることはなかった。
雪本は古い資料を読み漁り、当時の新聞記事や写真を集めていった。そこには煌びやかな衣装に身を包んだ少女たちの舞台姿、モボ・モガと呼ばれる若者たちの笑顔があった。
「これはただの遊園地じゃない。北陸の人々の夢そのものだったんだ」

商社マンの視点

剛章は配属先で地域開発の調査を担当していた。
港湾、物流、観光――そのすべてに触れる中で、彼の頭の中に一つの妄想が芽生えた。
「もし粟ケ崎遊園を現代に蘇らせたらどうだろう。ディスコやクラブで育った俺の世代の感覚で、21世紀型の“夢の遊園地”を創れるんじゃないか」
浅野川線の終点に、もう一度人を集める。
昔のように歌劇団を置く代わりに、世界の音楽とダンスを融合させたショー。
大劇場の代わりに、音と光で包むアリーナ。
そして、モボ・モガが歩いた香林坊の街並みに、新しいカフェ文化を呼び戻す。
「北陸の人に、再び夢を見せたい」
その思いが、彼の胸の中で強く膨らんでいった。

街の声

剛章は地元の人々に話を聞き回った。
「粟ケ崎遊園? 祖父母から聞いたことがあるよ。あそこはまるで宝塚だったらしい」
「子供の頃、親に『アワガサキ!アワガサキ!』とせがんだって話を、うちの母がよくするんだ」
人々の記憶の中に、遊園はまだ息づいていた。
だが同時に、懐疑的な声もあった。
「時代が違う。もう誰も遊園地なんて求めていない」
「バブルが弾けた今、そんな夢物語に金を出す企業はない」
剛章は迷った。だが、ジュリアナ東京で見た“熱狂”を思い出した。
「人はいつだって夢を求める。形が変わるだけだ」

夢の設計図

1992年の夏、剛章は一冊のノートを作った。表紙には「粟ケ崎プロジェクト」と書かれていた。
音楽とダンスを融合させた「北陸ショー」
大人と子供が共に楽しめる「海辺の遊び場」
地域文化を未来につなげる「モボ・モガ・フェスティバル」
商社マンとしての調査資料に混じって、そのノートは密かに書き足され続けた。
夕暮れの内灘砂丘に立ち、彼は風に吹かれながら呟いた。
「いつか必ず、この砂の上に夢を取り戻す」
その声は、かつての歌劇団の拍手の残響と重なり合って、静かに砂丘に消えていった。

洋楽カラオケアンケート

東京への帰還

1996年。
金沢での4年間を経て、雪本は東京本社に転勤となった。地方勤務で触れた地域文化や「粟ケ崎遊園」の幻影は、彼の中に「文化と商業を結びつけたい」という強い想いを残していた。
東京に戻ると、バブルの残り香はすでに薄れ、街の娯楽も変化していた。ディスコからクラブへ、ダンスフロアからカラオケボックスへ。夜の文化の主役は、大型の箱から小さな個室へと移りつつあった。
「遊び場は縮小しても、音楽への欲求はなくならない」
剛章はそう感じ取っていた。

アンケートという仕掛け

1998年、雪本は社内の企画会議で提案をした。
「カラオケで歌いたい英語の名曲をアンケートで調べましょう。世代ごとに“歌の記憶”を掘り起こせば、商材にもイベントにも応用できるはずです」
上司は首をかしげたが、「面白いじゃないか。やってみろ」とGOサインを出した。
雪本は学生時代のイベント企画さながらに、街頭インタビューやハガキアンケートを集め始めた。

結果と評価

1位「ダンシング・クイーン」

ABBAの代表曲「ダンシング・クイーン」は、今回のアンケートで最も多く票を集めた。1976年に全米1位を獲得して以来、世代を超えて愛されてきた曲であり、カラオケでは「歌いやすさ」と「盛り上がりやすさ」を兼ね備えている点が人気の理由となった。軽快なリズムと明るいメロディーは、歌う人に自信を与え、聴く人には自然に手拍子や合唱を誘う。

「ディスコ文化の名残」と分析

雪本はこの結果を「ディスコ文化の名残」と分析している。芝浦のクラブやジュリアナ東京で経験した“踊る楽しさ”が、カラオケボックスという小さな空間にも形を変えて息づいているのだ。親世代が青春時代に聴き、子ども世代も耳にしてきたことで、家族や友人の集まりでも共有できる「世代をつなぐ歌」としての力を持つ。この普遍性こそが、「ダンシング・クイーン」を不動の1位に押し上げた最大の理由であった。

参考